天野正輝編『子どもの未来を拓く教育の創造』(文化書房博文社 2003)所収

第5章 生活科の理論と実際

木 村 吉 彦

1 生活科とは何か

 はじめに,生活科とは何かを概観しよう。生活科設立の経緯にも触れながら,「生活科がめざしたもの」を初心にかえって確かめてみることにする1)。

1.基本的性格
 生活科とは、低学年の理科と社会が廃止された代わりにこれら二つの教科の「合科」されたものである,という説明をよく耳にする。教科の増減という現象面だけからすればその通りかもしれない。しかし,「臨時教育審議会答申」(昭和60年6月〜昭和62年8月)をうけた「教育課程審議会答申『幼稚園,小学校,中学校及び高等学校の教育課程の基準の改善について(答申)』」(昭和62年12月)では,「合科」というよりむしろ「総合的に行われる学習」という発想の方が前面にでている。そこには「…前略…低学年の児童の心身の発達状況に即した学習指導が展開できるようにする観点から,新教科として生活科を設定し,体験的な学習を通して総合的な指導を一層推進するのが適当である。(傍点は引用者)2)」と書かれている。さらには,「なお,低学年においては,児童の心身の発達状況を考慮して総合的な指導を行うことが望ましいので,生活科の設定後においても教科の特質に配慮しつつ合科的な指導を一層推進するのが適当である2)」とあり,低学年の学習活動全般にわたる総合学習化と従前教科についての合科的指導の推進が明記されている。
 これらのことから,私は生活科設置の意味を,単なる教科の改廃に止まるものではなく,小学校教育において低学年児童がより主体的に取り組める学習活動の場を保障することに主眼がある,と捉えている。そこでは,幼児期から児童期にかけての子どもの発達実態に即した「教育活動」が強く意識されている。生活科の新設は,学校に子どもを適応させるという従来の発想による教育ではなく,「はじめに子どもあり」の発想に基づく「子どもが『学習の主人公』になり得る教育機会」の登場だったのである。それは,生活科が「総合的な性格をもつ教科」であることを意味している。

2.生活科がめざしたもの
 平成元年版『小学校学習指導要領』第2章第5節には,生活科の教科目標として4つの視点と究極のねらいが示されている。4つの視点とは,@具体的な活動や体験の重視 ,A自分とのかかわりで自然や社会をとらえる ,B自分自身への気付きを大切にする ,C生活上必要な習慣や技能を身に付ける ,であり,究極のねらいとは「自立への基礎を養う」ことである3)。さらに『小学校指導書 生活編』(平成元年)においては,それぞれについて詳しい説明がなされている4)。
 これら『元年版指導要領』・『指導書』の教科目標と学年目標,そして各学年の内容の背景にある「4つのめざすもの」が,当時の教科調査官中野重人氏の著書『生活科教育の理論と方法』に述べられてある5)。以下に,私の考えも交えながら,「めざすもの」の内容を検討していこう。
 (1)体験の重視
 これまでのような教科書を中心にして学ぶだけの学校ではなく,具体的な活動や体験を重視して,からだ全体で学ぶ学校を創ることが肝要である。これまでの「知得」「座学」中心の学校教育ではなく,もっと「体得」「体験」を取り入れた学校教育がめざされなくてはならない。
 (2)個性を生かす
 「臨教審答申」を引き合いに出すまでもなく,これからの学校教育は「個」を育てるための「一人一人への細かい配慮」が必要である。その際に重要な視点は,以下の3点である。
 @基礎学力の保障
 学校における「個人」を問題にするとき,まず第一に一人一人の基礎学力の保障が確保されなければならない。すべての児童が学習の基礎・基本をしっかりと身に付けることのできる学校でなければならない。中野氏は「落ちこぼれをなくす」という言い方をしているが,「落ちこぼし」がなぜできてしまうのかということこそ第一に問題にされるべきものである。
 A個性化
 基礎学力の保障が前提となって「個性化」がはじめて意味をもつ。「個性化」とは,「一人一人の取り柄,長所を伸ばし、その子らしさを育てる」ことであり,「一人一人の違いを大切にし,自分なりのものに気付かせることによって,それぞれの児童にやる気と自信を持たせる」ことをめざしている。このとき生活科において重要なことは,子どもが「自分との関わりで身近な社会や自然を学ぶ」ことと,自分の好きなことはなにか,自分の興味・関心はどの辺にあるのかということに気付くこと,すなわち「自分自身への気付き」が果たされることである。これは,例えばこれまでの理科においては,全国どこにあっても1年生はあさがおの栽培,しかもフタバはどれで…といった知識の獲得に重点が置かれすぎていたことへの反省の上に立っている。子どもたちがそれぞれの興味・関心に基づき,思い思いのアプローチで学習を進めることを認めていくことが、「個性豊かな日本人」を育てることにつながるのである。
 B自分自身への気付き
 これは,生活科のキーワードである。自分は何者であるかについて低学年児童なりの自覚ができることをめざしている。次に掲げる3つの内容が含まれている。
イ.子どもが集団の中の自分のあり方に気付くこと。これは,子どもがみんな と一緒に遊び学習することを通して仲間意識や帰属意識が育ち,共に生活で きるようになることである。教師は,子どもに自分と仲間との違いに気付か せ,その違いを大切にするように指導することが重要である。
ロ.子どもが自分の成長に気付くこと。教師は,誕生から現在までの子どもの 成長や生活環境などの変化に気付かせ,子どもの成長の背後にいる自分を支 えてくれた人々の存在に気付かせ,それらの人々に感謝の念をもつように指 導しなければならない。
ハ.子どもが自分のよいところや取り柄に少しずつでも気付くこと。そのため に教師は、児童が意欲的に学習活動に取り組める工夫をする必要がある。
 (3)家庭や地域との関わりの見直し
 生活科は学校と家庭,学校と地域との関係を見直そうとしている。生活科に おいては児童の生活圏は学習の場であると同時に学習の対象でもある。また, これまで家庭教育の課題であり,学校教育の課題ではないと考えられてきた 「日常生活に必要な習慣や技能を身に付けること」も目標のひとつに挙げら れている。これは,学校教育の本来的任務はどこにあるのかという問題も含 め,多くの問題を提起していると思われる。
 @地域に根ざす教育
 地域素材の教材化は言うまでもなく,地域と一体となった学校づくりが求められている。生活科が遊びを学習と認め,生活圏である身近な自然と人々を学習の対象とするのは,学校と地域との関わりの見直しという課題への対応を示している。生活科は地域環境の見直しであり,ふるさとを学ぶ学習なのである。そのとき大事なことは,狭い意味での「地域中心主義」ではなく,あくまで世界に開かれた,国際化社会にふさわしい視野をもった「ふるさと学習」を心がけることである。
 A日常生活に必要な習慣や技能の獲得
 核家族・共働き・帰宅後の塾通いといった今日の多くの子どもの家庭生活を考えるとき,生活に必要な習慣や技能はあくまで家庭教育の課題であると指摘するだけではもはやなにも解決しない,という現状がある。「日常生活に必要な習慣や技能」の具体例としては,「安全な登下校」「日常生活上の整理整頓」「挨拶や話し合い」「決まりなどを大切にして仲良く生活する」など様々な項目が挙げられている。くれぐれも「しつけ科」さらには「おしつけ科」にならないよう教師は自覚しなければならないであろう。
 (4)授業を変える―新しい授業のあり方
 @メダカの学校
 これは,童謡の「メダカの学校」に由来する「キャッチコピー(宣伝文句)」であると私は受けとめている。子どもと教師が共に活動し,「誰が生徒か先生か」分らない授業をめざすという発想の象徴的な表現である。これは,先生が「ムチをふりふりチィパッパ」する「スズメの学校」との対比であり,現在の日本の学校教育における最も典型的な授業形態である一斉授業に対する問題提起である。それは,一人一人の児童に確かな学力を保障する授業づくり,すなわち,個に即し個を育てることを重視する授業の実現をこれからの学校はめざさなくてはならないという問題提起である。
 さらに言えば,私は,教師自身も学習を楽しむ,子どもと共に活動することを楽しめるような授業づくりをめざそうという提案であると解釈している。中野氏のことばを借りれば,「先生も子どもになれますか」という問題提起である。講義でこの言葉を紹介したところ,学部学生からは大いに共感を得られたが,現職教員でもある大学院生からは大いに反発を招いた。「それでは先生などいらないのではないか」という反発である。また,「活動あって指導なし」という批判を生む原因にもなっていると思われる。このキャッチコピーをどう理解するかについては,単なる授業形態の問題である以上に「子どもが学校という場所で教師と共に学ぶ意味」そのものが問われているように思える。それは,子どもと教師とをつなぐものとしての「教科」の意味が真正面から問われているからである。
 Aケンカも学習である
 これもキャッチコピーと考えた方がよさそうである。学校教育の中でケンカを奨励しているとは考えられない。生活科では,子どもがからだ全体を使って学ぶ活動が求められる。からだ全体で学ぶ活動とは,例えば,調べる,集める,作る,遊ぶ,育てる,表現するなどの活動である。その活動の中では,当然からだとからだがぶつかったり,道具の貸し借りの最中にトラブルが起こることは容易に予想できる。トラブル処理も学習であると言いたいのである。これは,トラブルをおそれず,むしろそのトラブルのもつ教育的意義を見直そうという提案である。
 B道草の見直し
 これもやはりキャッチコピーであろう。これは,地域の自然や人々から生きる知恵を学ぶ貴重な機会を大事にしようという提案である。「道草」は,今の子どもたちには必ずしも身近な事柄ではなくなっているからである。しかし,私にはそれ以上の意味があるように思えてならない。と言うのは,都会でも地方でも共通する「管理主義」の結果として「下校時は道草を喰わないように」と執拗に「指導」を加えようとする現状に対して,「子ども管理の緩和」を訴えているように思えるからである。子どもの主体的な学習活動の実現にとって,過度の管理主義の克服は現在の学校教育全般に関わる大きな課題である。子どもの安全管理の必要を前提としながらも,生活科が「行きすぎた管理主義」への警告を発しているものと私は考えている。

3.生活科とは何か
 これまで述べてきた「生活科の主張」をまとめてみよう。

@生活科とは,低学年児童がより主体的に取り組める学習活動の場を保障する ために設置された,総合的に学習する教科である。これは,これまで日本の 学校教育に支配的であった「教科孤立主義」に対する反省をも意味している。 その意味で生活科は,平成14年度から本格実施になった「総合的な学習の 時間」の「呼び水」の役割を果たしたことになる。
A生活科は,具体的な活動や体験を重視しており,子どもがもっとからだ全体 を用いて学ぶことのできる学校教育をめざしている。これは,幼児期の特徴 を色濃く残す小学校低学年児童の発達特性に対する配慮の結果でもある。子 どもの「実態」に即すことは,個性を育てることの前提である。
B生活科は,一人一人の基礎学力を保障した上で個性化をめざす。個性化とは, 一人 一 人の長所を伸ばしその子らしさを育てることである。それは,一人 一人の違いを大切にしながら自分なりのものに気付かせることによって,そ れぞれの児童にやる気と自信をもたせることをねらいとしている。そのとき 重要なことは,「自分との関わりで身近な自然や社会を学ぶこと」と「自分 自身への気付き」が果たされることである。
C生活科は,家庭・地域と学校との関係を見直そうとする。子どもの日常生活 にとって真に必要な地域の知恵・生活習慣・生活技能を身に付けることをめ ざしている。「家庭か学校か」ではなく,「家庭でも学校でも」への発想の 転換が求められている。また,生活科の英語訳が‘Life Environment Studies’ であることからも,生活科が子どもの身近な生活環境について学ぶ教科であ ることが明らかである。
D生活科は,これまでの教師中心の授業を改め,子ども中心の授業,ひいては 子どもが主人公となる学校生活の構築をめざしている。これは,学校の「行 き過ぎた」管理主義に対して警鐘を鳴らすものである。

 このように,新教科の設置によって,学校教育全体についての原理的検討が迫られたのである。


2 生活科の評価−他教科との違い

これまで見てきた「生活科のめざすもの」を実効あるものとするには,教育の出口としての「評価」が最も大きな問題となる。私は常々「生活科は評価の本質に忠実な教科である」ことを強調している。それは,生活科の評価では,はじめに「子ども理解」があり,教師による子どもの実態把握に即した「評価と支援の一体化」が図られなければならないからである。
以上を念頭に置きながら,生活科における実際の評価場面でのポイントを検討していこう6)。

1.生活自立者の育成
 生活科の教科としての究極の目標は,「自立への基礎を養うこと」である。『小学校学習指導要領解説 生活編』(平成11年5月)によれば,「自立」には「3つの自立」があり、「学習上の自立」「生活上の自立」「精神的な自立」という3つの意味での自立への基礎を養うことが生活科の教科目標である,と明記されている(p.14.)。さらにその「自立」の具体的な内容は,『小学校指導書 生活編』(平成元年)に「4つのねらい」として述べられてある(pp.10-11.)。
 ここでは,生活科評価の特質や視点を明らかにする前に,まず「ねらい」の特質を明らかにしよう。なぜなら,評価の視点とは,目標やねらいと表裏一体をなすものだからである。
 自立の基礎を養うための「4つのねらい」とは,「集団生活ができるようになること」,「(生活上必要な)自分のことは自分でできるようになること」,「自分の考えや意見を人に述べ,伝えることができるとともに,人の話を聞けるようになること」,そして「生きる主体として環境に働き掛け,…いろいろな事象や事物・現象への気付きを深めること」,であった。これらが身に付かないと子どもは日常生活がうまくできない,というわけである。これらのねらいのいずれにも共通することは,子どもが「生活する」,あるいは「生活できるようになる」上で必要な資質である,ということである。従って,究極の教科目標である「自立への基礎を養う」とは,子ども一人一人が「生活自立者」となる上での基礎を養うことであると読み取ることができる。
 以上のような生活科の目標から評価を考えると,生活科においては,まず,子どもの「生活自立力の向上」「生活実践力の向上」ということが評価の視点とされる必要がある。生活科の指導によって,生活ないし実践できなかったことができるようになった,あるいは,生活できてはいたが一層よくできるようになった,ということがはっきりするような評価の視点を設定する必要がある。このような視点は,これまでの知識・理解の習得を中心とした見方とはきわめて異質なものであり,まさに子どもの生活実態を出発点とした評価の視点であると言える。
 一方,文部省『小学校 生活 指導資料 新しい学力観に立つ生活科の学習指導の創造』(平成5年9月)には,生活科評価の特色として,「具体的な活動や体験の広がりや深まりを評価する」「一人一人に即して評価する」「実践的な態度の評価を重視する」(pp.40-45.)という3点が具体的実践例とともに述べられている。このことも踏まえて「生活自立者の育成」の基礎づくりという目標を考えると,生活科では、なによりも子どもが「よき生活者となることをめざし」,子どもが「日常生活のなかでどのように考え,工夫し,行動するようになったのか」をまず第一に見なければならない。すなわち「実践的な態度」の育成が重視されなければならないのである。これが,第一の特質である。

2.活動・体験を重視する評価
 生活科では,「自立への基礎を養う」ための方法的特性として,また,評価の視点の特色のひとつとして,「具体的な活動や体験を通すこと」が挙げられる。「実践的な態度」の育成が重視される以上,当然のことかも知れない。これは,よく知られているように,「低学年児童には具体的な活動を通して思考するという発達上の特徴がある」にもかかわらず,これまでは「座学」中心の方法(椅子に座って頭だけで教科内容の理解をめざすやり方)が採られていたことへの反省として提案されたものである。
 しかし,これは大学における私の実践経験からも言えることであるが,「活動や体験」重視の方法を採れば,必ず学習者が「意欲的な学習や生活」をしてくれるかというと,そうとは限らない。なぜかと言えば,学習者が「意欲的な学習や生活」をするのは,単に「手足,身体を使った活動や体験をするから」ということではなく,それらが「問題場面の解決」というひとまとまりの行動や体験として展開されるからである。あくまでも,学習者(小学生でも大学生でも)の「主体性」に訴えかけることが先決である7)。そうでければ,場合によっては,「活動や体験の詰め込み・画一的指導」もありうるからである。
 また、先の『指導資料』の中の「生活科評価の特色」にもあるように、「具体的な活動や体験の広がりや深まりを評価する」ことは,「活動の内容は個人やグループで多様」であり,子どもの「主体的活動が重視」されることが前提である。その上で,「子どもの考え方や行動がどのように広がり,深まっていったか,また,その中で子どもがどんなことに気付いたり疑問を持ったりしたかなどを評価する」ことが求められている。「活動・体験重視」ではあっても、現象として現れた「活動」のみを評価するのではなく,子どもの内面の変化についても読み取り,個々の指導に生かすことが求められているのである。子どもの内面までをも理解し,それをもとに指導・支援を行う「究極の評価と支援の一体化」が求められている。

3.知識・技能・習慣の生活への手段性の評価
 生活科の評価のポイントとしてもうひとつ指摘しておきたいことは,「自立への基礎を養う」ための「生活上必要な習慣や技能」は,すべて「具体的な活動や体験を通して」身に付けさせることが大切であるとされている点である。生活科では,知識・技能・習慣などはあくまで生活していく上での手段であると捉えられている。つまり,知識・技能・習慣を実際の生活場面から切り離し,それらのみを「取り立てて」指導することはあまり意味がない,と考えるのである。生活科ではあくまで実生活に生きて働く知識・技能・習慣を身に付けることが大切である。『指導書』における「従前の社会科や理科の学習においては,身近な社会や自然を観察の対象として捉えがちであったのに対し,生活科では児童自らが環境の構成者であり,また,そこにおける生活者であるという立場からそれらに関心をもつところにその特徴がある」(p.5)とか,「生活科では,児童が生活者としての立場から,家庭生活や学校生活,また,社会生活において必要な習慣や技能を身に付け,それを生活の中に生かすことができるようになることをめざしている」(p.6)という記述は,まさしく評価の視点としても特徴的である。社会や自然と関わること,自分自身の生活を考えることも,全ては児童の自分自身の「生活自立」のためにこそ必要なことである。さらには,児童が生活上必要な習慣や技能を身に付けたかどうかは,生活場面から切り離して評価されるのではなく,問題解決場面において「手段的価値」を発揮したかどうかにおいてのみ評価の対象となるのである。

4.『指導要録』における評価の観点との関連
 現行『小学校児童指導要録』における,生活科の「評価の観点及びその趣旨」は次の通りである(平成13年4月27日付「指導要録の改善通知」より)。

これら3つの観点は,言うなれば「具体的な活動や体験」の3つの側面として読み取れる8)。すなわち,観点「生活への関心・意欲・態度」は「具体的な活動や体験」の過程において,いろいろな事物・事象に関心をもったり,進んでそれらとかかわったり,楽しく学習や生活に取り組もうとする子どもの情意的特質を示している。また,観点「活動や体験についての思考・表現」は,活動や体験の過程において自分なりに考え判断し,工夫・創造し,表現したりするなどの能力の育成がめざされている。さらに,観点「身近な環境や自分についての気付き」は,「具体的な活動や体験」を通して子どもが獲得する自分と身近な人々、社会や自然とのかかわり,自分自身のよさなどについての内容なり結果への気付き(いわば知識・理解)を捉えようとしているのである。
 生活科では、子どもが出会う社会生活上の問題場面(疑問,必要,欲求,願い等)の解決活動を通して生活自立者としての基礎を養う必要がある。従って,まず,問題場面の解決を進めようとする意欲と一定の望ましい態度,すなわち情意面の発達が伴わなくてはならない(「関心・意欲・態度」)。そして,その解決活動をよりよく進めるための具体的な力の育成を図る必要がある(「思考・表現」)。しかも,問題場面解決の活動が豊かに発展するためには,その過程において一定の内容・結果(知識・技能・生活習慣等)を身に付け,一層の広がりや深まり(「気付き」)をもたせることが大切である。このように、3つの評価の観点は,まさに「具体的な活動や体験=問題場面の解決活動」を構成する3つの側面なり力であると考えることができる。

5.他教科と一番ちがうところはどこか
生活科以外の他教科にあっては,教科内容についての「知識・理解」に対する「到達目標」がはっきりしているため,絶対評価に基づく「子ども理解」に徹することは,現実的に難しい。その点,生活科の目標は基本的に「方向目標」であるので,その子どもをありのままに理解し,それをそのまま支援に生かすことがより容易である。評価の基本に忠実な教科特性を十二分に意識して評価活動に当たってほしい。具体的には,次の3点を意識してほしい。
(1)「観点」の捉え方
 「観点」=「子どものよさ(=その子らしさ)をみいだす窓口」と捉えればよい。次のようにである。
@ 「関心・意欲・態度」=活動に積極的に関わったり,継続的に関わろうとし            ているよさ(らしさ)
A 「思考・表現」=活動中に考えたり、工夫したり,一生懸命表現しているよ         さ(らしさ)
B 「気付き」=活動中に驚きをもって発見したり,何かが分かったりしたよさ      (らしさ)
C 生活科の場合の観点別評価はいわゆる絶対評価に属するものであり,AB  Cの評価は目標の実現状況を見れば十分である。その結果、ABCの分布  率などを考慮する必要はないと思われる。
(2)あらゆるものが「子ども理解」の材料
 とにかく「子ども理解」が生活科評価の基本である。従って,「子ども理解」につながると思われるものはすべて「評価」の材料になると心がけなくてはならない。例えば,子どもの書いた「学習シート」はもちろん,絵,作文,つぶやき,活動の様子の写真,教師の観察記録,親からの連絡帳等々…,子どもに関わるすべてが「子ども理解」すなわち「評価」の材料なのである。
(3)子ども自身の自己申告と自己評価の活用
とりわけ「自分」というものにこだわる生活科である。そこで当然のことながら,子ども自身が自分のことや自分たちの活動をどう思っているのかについては常に意識を向けていなくてはならない。常日頃から教師は,子どもの「言い分」や「反応」を意識せざるを得ないであろう。ただし,これは「子どものいいなりになる」ことを意味してはいないので注意してほしい。ここでは,他教科と比べて,生活科が,自己申告・自己評価を存分に教育評価に生かせる教科であることの指摘にとどめたい。


 3 生活科の実際

  現代日本の子どもは,時間・空間・仲間という「三つの間」の喪失により,
「自己形成空間=子どもたち同士で自ら育つ環境」を失った状況にある9)。その結果としてもたらされたものは,子どもの「かかわる力」つまりは「個人が社会的に生きる力」の衰弱である。真の意味の「自立」が他者への上手な「依存」の上に成り立つものである以上,今、日本の子どもたちは「自立」を達成しにくい状況の真っ只中にいると言わざるを得ない。
 このような社会状況のなかで生まれたのが「生活科」である。生活科のねらいは,究極的には「自立への基礎を養う」ところにある。「自立」を達成しにくい社会状況のなかで,「自立」の問題を真正面から取り上げる教科が登場したのであった。
 一方,学校教育にとって,生活科設立の最大の意義は,「具体的な子どもの姿から教育を語る」という発想を,学校教育のなかに改めてもちこんだことである。それまでの学校教育は,現実には,「はじめに教科や教師のねらいあり」の発想で進められることが多かった。それに対して,「はじめに子どもあり」という発想をつよく打ち出したのが生活科である。そこでは,子どもの変容を的確にみとることのできる学校教師が求められている。

1.子どもたちの変容―生活科で育っている力
  生活科や「総合的な学習」に関連して,これまで報告されている「育っている力」には,どちらかと言えば「個人的な資質」と言えるものが多い。たとえば,主体性・積極性(これらは,「力」というよりは前提となる意欲の部分である)・想像力・企画力・観察力・問題発見/解決力などである。生活科や「総合的な学習」の登場によって,今まで以上に子どもたちの「個の充実」が果たされ,かつ,そのことを重視する教師が増えていると考えてよいであろう。
 しかし,生活科実施後10年を経たこの時期においてさらに重要なのは,「社会的な資質」に関する力の育ちである。「社会的な資質」とは,「かかわる力」すなわち「一人一人が上手に自分を発揮しながら他者と共に生きる力」のことである。「かかわる力」のより具体的なものは、次のふたつの力であると私は考えている。第一に,同じ活動についてもその感じ方や興味のもち方が各自違うことに気付き,他のあり方を認める力,第二には,集団のなかで自分の課題を発見しその解決に向けて行動する力,さらには,共に育ち合おうとする力である。第一の力をつけるには,動植物とのふれあいや仲間との共同活動・話し合いを通して自分を相対化するチャンスをたくさんつくる必要がある。また,第二の力をつけるには,仲間や教師との共同活動を進めるなかで,一人の時より楽しい体験やより充実した経験ができたという実感を積み重ねる必要がある。
これまでになされている「生活科後の子どもたちに育っている力」の報告や,私自身学校に足を運んで実感することのできた「育っている力」を,私なりに分類すれば次のようになる。

 現場の先生方には,このような力の育ちが可能であるという見通しをもって生活科実践に取り組んでもらいたい。とりわけ,個人が集団の中で積極的に自分を発揮できるような集団づくりが今後ますます重要になる。さらに言えば,一人一人がお互いを認め合い,共に学び,共に育ち合おうとする集団づくりの力量が,これからの教師の力量を測るバロメーターとなるであろう。

2.地域へとび出す実践―「なかよしぼくじょう」と「開こう!朝市」―
 私は,平成7・8年度の2年間ほぼ週に一回の割合で,上越教育大学附属小学校の上原 進学級に入り,観察のみならず,上原先生やクラスの子どもたちとともに様々な活動を行った。そして,子どもたちが2年生を終えようとする時期に自己評価アンケートを実施した(平成9年3月13日実施)。このアンケートからは,先の分類で言えば,個人的な資質のうちの「自己表現力」と社会的な資質全般すなわち「他とかかわる力」についての「育ち」が顕著であった10)。上越教育大学附属小学校は,「子どもの主体性を重視した」教育活動の研究においては,既に30年以上の伝統がある。その研究成果の一つとして,低学年においては「総合単元活動」という独自の総合的な学習活動が行われており,その発想は,生活科と共通するものである。
 先に,これからの生活科においては「社会的な資質」の育成がより重要であると述べたが,上原学級の子どもたちの「他とかかわる力」の育ちがどこに由来するものであるのかを探ることは,これからの生活科実践にとっても重要な示唆を与えてくれると思う。そこで,この上原学級の2年間を,2年目を中心に振り返ってみることにする。
 (1) 大型動物の飼育(1年次)
 上原学級の1年目は,春から秋まで2組のみんなといっしょに「ロバのろっちゃん」の飼育を中心に展開された。上越市に隣接する板倉町の光が原牧場で4月にロバと出会い,もうすぐ雪の便りが聞こえる10月末のお別れ会まで実質半年間の飼育であった11)。
 ろっちゃんという「生き物」から,子どもたちは人間関係の原則を学んだようである。すなわち,ロバほどの「大物」になると,遊ぶにしても世話をするにしても,子どもたちの思いどおりには動いてくれない。この現実が子どもたちの「自己中心性」を許してくれない。ろっちゃんとの共存は「自分が相手に合わせる」ことによってしか実現しないことに子どもたちは気付いていった。また,ろっちゃんは時々,柵を壊しては逃げ出した。ロバにとって必然性のある行動でも,子どもたちにとっては全く「予期せぬ出来事」である。子どもたちは,自分と違う「生」を生きるろっちゃん,ろっちゃんとは違う「生」を生きる自分に気付かされた。前述の「社会的な資質」からすれば,子どもたちは,ろっちゃんを通して「自他の違い」をいやと言うほど思い知らされたのである。
(2)「朝市」の1年(2年次)
  2年生になると,上原学級の子どもたちは,3回の「朝市」を行った。「春の朝市」(平成8年5月17日…学校で)・「秋の朝市」(11月3日…学校で)・「冬の朝市」(12月7日…本物の場所で)の3回である。上原先生によれば,子どもたちは,「大町通りの朝市を『まねる』ことから始め,…まねながら自分たちの店をつくってい」った。ところが,「初めは『まねる』ことから入っても,朝市の活動を進めていくと,子どもは自分らしいことを考え出していく12)」のであった。そこには「まねぶ=まなぶ」子どもの姿があった。1回だけで終わらずに3回繰り返したことで,たとえ1回目はうまくいかなくとも,2回目・3回目にその経験を生かせばよい,ということも子どもたちは学んだ。
 子どもたちは、地域の中にとび出していくことで,地域の伝統文化としての「朝市」に触れ,「まね」から始めながらも,体験していく中で自分たち独自のものに継承発展させ,朝市を独創的な文化として再生産していった。これこそが,地域に生きることであり,地域に学ぶ姿そのものである。朝市を見物するところから始まって,実際に自分たちで3回の市を開くまでの過程は,次の通りである13)。
 @朝市を諸感覚を使って感じる
 春の味覚を採るために学校の周りの散歩を繰り返していた子どもちは,さらに足を伸ばして大町通りへと出かけていった。そこで,こごめ(くさそてつ,こごみとも言う),ぜんまい,ふきのとうなどの春の食べ物がトレーに入れて売られているのを目撃する。彼らと朝市との「出会い」である。
 子どもたちは,市で見つけたものをカードに書いたり、品物の名前を書いたりして学校に帰ってきた。2回目に大町通りへ行った時はお金を持って行って実際に買物をした。こうして,大町通りの朝市で見たり,聞いたり,買ったりすることを繰り返す中で,子どもたちは様々なことを感じとっていった。子どもたちにとって朝市のよいところは,売られているものを見れば,採ってきたもの・栽培したもの・手作りの物など,商品になるまでの過程が分りやすいことであった。分りやすいがゆえに「まねる」ことができたのである。また,売り手と買い手とのやりとり(子ども自身も当事者の一人であるわけだが)も楽しく,あたたかいものを感じとったようである。
 A朝市をむかえるまで
イ.朝市の計画
 子どもは,大町の朝市で見たことをもとに自分たちで開く朝市の計画を次の ように立てた。すなわち,「品物の準備→値段の決定→売る場所の決定→売 り方/店の出し方を考える→お金の計算」という計画である。
ロ.品物の準備
 本物の朝市をまねようとしているのだが,子どもではとうてい用意できない ものも提案される。そこで,どんなものなら品物になるのかを話し合った。 その結果,「買ったものではなく自分で集めたもの」,「買ったものでも育て たもの」,「手を加えて作ったもの」,の3点で落ち着いた。
 花の苗を育てる,食べられる草花を集める,野菜を育てる,飾り物を作ると いった活動が進んだ。子どもたちは,友達同士で見せ合ったり比べたりしな がら品物を作っていった。みんなで一緒に活動しながらアイディアを広げて いった。
ハ.値段の決定
 品物ができたら,値段を決めることになる。それぞれの自由にしてしまうと, 同じものでも色々な値段が出てしまうので,次の二つを方針とした。
 ・材料費を記録し,それをもとに値段を決める。
 ・本物の朝市で売っている品物の値段と比べ,自分の値段を見直す。
ニ.宣伝
 朝市を宣伝する方法は,子どもたちが思い思いに考え出した。ちらしや広告 を作った子ども,大きな看板を作った子ども,のぼりを作った子ども,イラ ストや気の利いた言葉の入ったものなど,子どもらしいものができあがった。 できあがったちらしや広告は,掲示したり,学校のまわりに配ったりした。 こうして朝市の日を迎えた。
 B朝市の本番そして売上金
イ.買い手とのやりとり
 朝市が始まった。学校での朝市には,子どもたちの家族がたくさん買いに来 てくれた。冬におこなった大町通りでの朝市では,一般の方もたくさん来て くれた。「それ,ちょっと高いわよ,まけなさいよ」とお客さんに言われ, 値段を下げる子がいた。自分の品物のよさを宣伝する子がいた。計画通りに いかないお客さんとのやりとりを通して,子どもたちはその場で考え,その 都度判断しながら,相手とかかわっていた。
ロ.売上金の計算
 朝市が終わった後教室に戻り,売上金の計算をした。このとき,売上金から 材料費を差し引くことが話された。子どもたちには不満らしいが,これは納 得せざるを得ない。この売上金の計算は,子どもたちは無意識であろうが算 数の学習も兼ねている。実際のお金を用いながら千や万の数を学習していた のである。自分たちが精根込めて「稼いだ」お金である。まちがえないよう にと彼らも必死であった。
ハ.売上金を元手にした活動
 売上金の一部を使って,秋まき野菜の種を買った。それらが成長し,収穫し た大根やかぶは2回目,3回目の朝市の品物にした。3回目の朝市が終わっ てから,それまでの売上金を使ってクリスマスパーティーをした。また,朝 市をした記念にと,顔写真入りのキーホルダーも作ることができた。
 (3)子どもたちは、どのようにして「かかわる力」を学んだか
 @子どもの「自己選択」にもとづく活動
 春の朝市開催前日の最後の準備作業。子どもたちは一心不乱に自分の課題に向かっていた。子どもたちの集中する姿は,今でも私に強い印象として残っている。そして,私も「お客さん」の一人として参加した翌日の朝市。値切られて困っている子ども,売れ残りそうになって「買ってちょうだい」と頼みに来る子ども,だれもが真剣そのものであった。あの「集中力」と「相手に対してものおじしない態度」そして「他者とかかわる力」は,上原実践のどこに由来するのだろうか。
 単元を展開していくなかで,上原先生は様々な手立てを考え,子どもたちに提案したり,また自らも参加したりして活動にかかわっている。様々な手立てとは,具体的には次の様なものである。
・幼児期の「ごっこ遊び(お店やさんごっこ)」という先行経験を活用して模 擬体験させることにより,全員が売り手と買い手の立場を経験し,朝市の場 面を双方向からイメージできるように工夫した。
・事前事後の話し合いをたっぷり行うことで,振り返りと見通しをつけるチャ ンスをつくり,子どもたちの発想の拡大を促した。ただし,方向性の最終決 定は子ども自身に任されていた。担任はあくまでアドヴァイザーであり,子 どもたち自身が「自分で選ぶ」経験を繰り返していったのである。
・子どもが必要とすることが予想される道具や材料が豊富に準備され,子ども の手の届くところに置かれていた。活動の方向のみならず,モノについても 子どもたちは必要に応じて選べるようになっている。この材料の中には,何 冊かの「図鑑」類も含まれていた。1年生の時と違い,子どもたちが文献に よって調べるという抽象的な学習様式を身に付けていることを,担任は見抜 いていたのである。
 ここには,「イメージ→他とかかわる活動→振り返り→新たなイメージ→他とかかわる活動→振り返り……」という循環が見られる。重要なことは,それぞれの場面の設定が,子どもたちにとってすべて「選択的」であったことである。しかも,上原先生の場の設定は,子ども個人の学びの場と自他のかかわりのなかでの学びの場という二つが常に用意されていた。こうした選択的な学習環境が与えられることで,子どもたちは自分の課題をクラスメイトと共に発見し,共に解決する活動へと向かっていったのである。
 子どもたちのあのパワーの源は,「自己選択の経験の集積」にあったように思う。幼児期の「遊び」経験を前提として,1年生の時代から上原学級の子どもたちは,自分自身で選んだ課題を自分自身で解決する経験をたっぷり積むことで,他者とのかかわりにおいて現れた課題(例えば,クラス全体の課題や教師が与えてくれた課題)に対してもしっかりと受け止め,課題解決に立ち向かってゆける力がついたのだろう。上原先生の「選択的」な学習指導のみごさと,「主体的活動=自己選択の連続」の重要性を目のあたりにした思いがする。
 A「本物」がもたらしたもの
 今回の一連の朝市における最大の課題は,値段の決定であった。需要と供給の関係から生まれる商品価値の問題を小学校2年生なりに解決したわけだが,いったん話し合いで決めた値段であっても、お客さんとのやり取りのなかでどんどん変わってしまった。でも,そうやって手に入れた売上金は,計算にも熱が入っていた。
 もう一つ子どもたちが経験的に学んだことは,商品管理の問題である。翌日を楽しみに用意しておいたジャムに蟻が侵入していた。例えば冷蔵庫に保存するといった対策が可能であったと思われるが,あとの祭であった。
 考えてみれば,これらは,おとなの商業活動にとっても共通の課題である。これは,ひとえに「本物」を教材としているからである。本物からの学びには「ごっこ」では味わえない醍醐味があることを,子どもたちは実感したであろう。
 ここで私は,『エミール』における,市場でのアヒルの奇術の場面,園丁ロベールに掘り返されたそら豆畑の場面,そしていたずらをしてガラスを割った子どもへの「自然罰」の教訓を思い出す14)。そこでは,幼・少年期における現場と出会うことの大切さ,本物を通して体験することの教育的インパクトの大きさが語られていた。奇術師とロベールからは,生きるために人それぞれがいかに真剣であるかをエミールは学んだはずである。また,窓から吹き込む夜風は,原因をつくった者がその結果をも引き受けなければならない自然の厳しさを子どもに教えてくれると思う。上原学級の子どもたちも,大事なお金を有効に使おうとして,おとながいかに真剣であるかを学んだであろう。また,「うっかり」を許してくれない自然の厳しさをも思い知ったはずである。自慢のジャムが売り物にならなくなっても,蟻をうらむわけにはいかないのである。


4「生きる力」の育成―「3R’S」から「4R’S」へ―

 これまで,教育によって身につけさせたい力とは,「読み(Reading)・書き(wRiting)・算(aRithmetic)」の三つである言われ,「3R's(スリーアールズ)」と称されていた。それに対して,昨今の社会状況の変化からくる子どもたちの生活の変化により,もうひとつのRを加えて「4R's(フォーアールズ)」を基礎学力とすることを私は提案したい。第4のRとは,「人間関係(human Relationship)」の力である15)。「かかわる力」の必要性と重要性がますますクローズアップされている。
 この提案は,「自己教育力」「新しい学力観」において不十分とされてきた子どもの「社会化」を促す提案である。これは,第15期中央教育審議会第一次答申(平成8年7月19日)における「生きる力」という概念と内容的に共通していると思われる。第一次答申は言う。
 「この様に考えるとき,我々はこれからの子供たちに必要となるのは,いかに社会が変化しようと,自分で課題を見つけ,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,行動し,よりよく問題を解決する資質や能力であり,また,自らを律しつつ,他人とともに協調し,他人を思いやる心や感動する心など豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は,こうした資質や能力を,変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとし,これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。16)」
ここで語られる「生きる力」が,「個人が自立して社会的に生きていく力」であるとするなら,それは,「自分を上手に発揮しつつ他とかかわる力」そのものである。それは,本章で私が取り上げてきた「育っている力」と共通するものであることにも気付くであろう。すなわち,生活科とは,「生きる力」育成を目的とした教科なのである。
 生活科が,今求められ,これからもますますその重要性を増すであろう「生きる力」形成のための中心教科として,さらに発展していくことを強く願わずにいられない。



注・参考文献

1)本節は,生活科の初心にかえるために,あえて生活科がはじめて登場した  平成元年版『小学校学習指導要領』・『小学校指導書 生活編』(平成元年)  及び当時の教科調査官中野重人氏の著書『生活科教育の理論と方法』の記  述から,「生活科のめざすもの」を解き明かそうとした。
2)『内外教育 昭和62年12月25日号』p.5.
3)『元年版 指導要領』p.69 ,『指導書 生活編』pp.7-11.参照。
4)『元年版 指導要領』pp.69-70 ,『指導書 生活編』pp.12-39.参照。
5)中野重人『新訂 生活科教育の理論と方法』(東洋館出版社 平成4年)   pp.33-42.
6)高浦勝義『生活科における評価の考え方・進め方』 (黎明書房 1991)pp.70-82.7)拙稿「生活科の精神と大学の授業改革」(文部省『初等教育資料 平成6  年10月号』)pp.68-71.
8)高浦 前掲書pp.115-117.
9)拙稿「生活科の教育学的基礎付け(その4)−現代日本の子どもの『生活』  −」(上越教育大学幼児教育講座生活科研究グループ『生活科の構想とそ の展開 第4集』所収 1996年)p.17.
10)このアンケートの内容及び結果の詳細は,拙稿「生きる力の支援―生活科  から地域へ」(石川道夫・田辺稔 編『ケアリングのかたち』pp.67-88.所収   中央法規 1996年)参照のこと。
11)上越教育大学学校教育学部附属小学校1年生『ぼくらのなかよしぼくじょ  う−総合単元活動の記録−』1996年
12)上越教育大学学校教育学部附属小学校2年生『チャレンジ2年生−総合単  元活動の記録−』1997年 p.63.
13)同  上  書  pp.65-68.
14)J.J.ルソー,今野 訳『エミール(上)』(岩波文庫 1962年)pp.143-148,pp.299-306.
15)石田恒好「“生きる力”心理学からの解明」(『週間教育資料No.512 平成9  年1月6日号』) p.42.参照。
16)第15期中央教育審議会第一次答申『21世紀を展望した我が国の教育の  在り方について』(『文部時報平成8年8月増刊号』)p.20.



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